家がビジネスをしているというのはもちろん幼いときから知っていたし、無意識にせよ、継ぐか継がないかといった話が将来出ることは以前から意識していた。大学進学時に経済学部を選択したのはビジネスの基本である経済を知るためであったし、自己啓発を絶やさなかったのはより重い責務を果たすためであったし、経営戦略やマーケティングの勉強があんなにも楽しかったのはこのようなバックグラウンドがあったためだっただろう。
ITの世界は非常にダイナミックで刺激的で、わたしはその業界での起業を目指していたが、そしてグローバルへの夢はわたしを外資系企業へと駆り立て、オバマの存在はわたしを海外留学または政治の世界へと誘ったが、人生というものは時間が限られており、わたしは運命や存在意義というものを強く考えなければならない年齢に達していた。
このブログでも度々述べたが、死の恐怖と自分の弱さを去年知った。何回も読んでいる『聖の青春』という本を読んだときに感じた死に対する新しい感覚。死ぬときの恐怖がまざまざと認識できた。今床に臥し、死を目の前に迎えたらわたしは死というものを恐怖の眼差しで見るだろう。あまりにも一人で生き過ぎていた。あまりにも真実の生き方から遠かった。
自分がちっぽけな存在で、弱い人間であるということを知った。後悔とは無縁の男だと思っていた。常に強い信念を持ち、困難を切り抜け、挑戦こそが我が生きがいと思っていた。しかし過去の取り返しのつかない過ちや決定がわたしを散々悩ませ続けた。わたしはそれを弱さから出る亡霊と断じ、必死で努力し、振り払おうとした。わたしは普通の、弱い男だった。
しかし死の恐怖と弱い自分というのはわたしが真実を見つめ始めたサインだった。人は一人では生きられないこと。人とのつながり、家族とのつながりの中で人は生きること。普通に生きるということの価値。過去と現在と未来の関係。運命とともに生きるという感覚。責任を果たすという意味。日本人であるということ。旅と旅を終えたときに戻る場所。
決断というものは言葉で説明することは困難で、決断の正しさを証明することも困難であることが多い。しかし人はその人生経験の中でこれは間違いないという感覚がどういうものなのかを知りうることができるし、そのこれは間違いないという決断を下し、行動を起こした後の正しい場所にいるという清々しい気分を知ることができる。
それこそ求めているものだと。
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