Wednesday, September 26, 2007

blog - 意志の強さについて



最近、よくそんなに勉強できますねと質問される。

意志が強いと思われる人がいるかもしれないが、それは事実と大きく異なるという結論になるだろう。なぜならわたしの意志はそんなに強くないし(過去、鉄の意志を追い求めていたことは否定しない)、意志を強くみせるにはそれなりのテクニックがあるからだ。それを今回述べようと思う。

わたしがスターバックスを利用しだしてから一日の勉強時間が5時間から10時間へと飛躍的に増えたということは既に述べた。最近はわれながらなかなか勉強できているように思う。その秘訣の構成要素としては大きく①目標設定、②環境整備、③楽しみながら勉強、④アイデアを生かす、というところになると思うが、これから少しそれぞれを見ていこう。

①目標設定
・わたしの今回の例であればTOEIC950や英語達人など、具体的?な目標を設定することが重要である。いや、別に具体的でなくてもいいと思う。ただ燃えられれば。熱くなることができれば。ふとしたはずみに布団から飛び起きて、勉強机に向かうような衝動が月に数回ないしは週に2、3回あるようなものであれば。

・また、一緒に勉強する仲間、ライバルといったものも必要になるかもしれない。例えば次のTOEICにわたしはあるもの(焼肉)を賭けている。そういったものがあれば、そういったものを複合に整備していくことができれば、人間の心という実に弱いものに対して目標の達成という成果を生み出す大きな原動力となる。


②環境整備
・これがポイントかもしれない。というのはわたしはこれがうまいというか、意志が強くないということわかっているから(過去、鉄の意志を追い求めていたことは否定しない)、「勉強せざるを得ない、または進んで勉強せざるを得ない環境」を作る能力に長けているということになるからだ。これを解説してみよう。

・例えば、わたしの家では地上波のみならず、あらゆるテレビ番組というものが見えないような仕組みになっている。テレビ装置はあることはあるのだが、そのスイッチを押しても日テレやフジテレビは写らないようになっているのだ(これが意図的なものであると断言できることは既に述べた)。そしてそのテレビ装置はDVD装置とつながっているから、自然わたしの家には『フレンズ』や『24』などの英語学習用のソフトが多く並ぶということになる。

・日常を英語でより多く満たすという環境づくりもあった。例えば外資系の会社に転職してインド人たちと英語トークをせざるをえない環境に身をおいたというのはその代表であるし(ま、これは話が大きすぎる)、三鷹に住んで朝始発で30分座りながら勉強できる環境を作ったというのもあるし、iPodに音楽をダウンロードできないような心的構造にもっていったというものあるし、昼に一人でスターバックスで勉強できるように職場の人間関係を工夫したりというものもある。


③楽しみながら勉強
・「目標設定」をWhat、Why、「環境整備」をWhen、Whereとすると、この楽しみながら勉強するというのはHowにあたるものということになるだろう。楽しみながら勉強するというのはわたしの勉強法の骨格を成すものであり、これなくして一日10時間の勉強はわたし的にありえない。ではどのように勉強を楽しむというのだろう?それをこれから述べたいと思う。

・わたしはあるとき気づいた。楽しみながら勉強をしているという時間があることに。そしてその時間はある共通した特徴を持っているということに。①苦痛を伴わないものであること、②成果を測定できるものであること、③成長に結びつくことが理解可能であるもの、くらいだろうか。

・「百ます計算」というものをやったことはあるだろうか?これを実際に2週間続けるとよくわかるのだが(1回か2回やっても今回わたしが言う効果は実感できない)、人間の能力というものはあるものを続けて行っていくと「必ず成長する」のである(百ます計算でいえばその時間が不思議なほどにどんどん短くなっていく。なお、世界記録かそれに近いと思われる48秒という記録を叩き出したことはここで述べる必要はないが、一応述べておく)。

・①の「苦痛を伴わないものであること」というのは解釈が難しいところではあるが、例えば英語のレベルが初級のときにTimesを辞書を引きまくりながら読んでも、それは苦痛であるばかりか効果的でないのは十分理解できるところであろう。脳に微妙な引っかかり、これは快感と言ってもいいと思うが、それを感じられるような負荷を与えるトレーニングを行いなさいということだ。そうすると楽しめるからだ。例えばわたしは今TOEIC英訳をやっているが、これくらいの難度の文章が今のわたしにはちょうどよく、これが新聞に出てくるようなものを訳しなさいと言われればそれは難しすぎるか、今のわたしには役に立たないだろう。

・②の「成果を測定できるものであること」というのは、例えば今のわたしのTOEIC英訳であれば英訳した結果の答えがあり、それと比べることによりわたしがノートに書いたものがよかったのか悪かったかのかが測定可能であり、それが勉強の楽しさに結びついていくということだ。思い起こすと良い。テレビのクイズ番組は答えがあるから面白いのであり、答えを生み出すことそのものが楽しくなるということを。

・③の「成長に結びつくことが理解可能であるもの」というのは、まさに百ます計算の測定結果の棒グラフであり、TOEICの点数の履歴であり、昨日覚えた表現を明日職場で実際に使うということであり、人間というものは成長を心の底から楽しむことができ、それは子供たちを見れば一目瞭然なことであるが(楽しんでいない子供はいまい。なぜなら子供は例外なく成長しているからだ)、その成長に直結するような活動には心の底からの楽しみでもって没頭できるようにできているのだ。それを改めて理解する必要がある。


④アイデアを生かす
・これは「スターバックスでの1時間の勉強」のアイデアのところで述べたことであるので多くは語らないが、「それ」に没頭し始めると、アイデアが湯水のように沸いてくるのが実感できるだろう。例えば電子辞書の使い方は日増しにうまくなり、iPodの新しい活用法、TOEIC中心主義という発明、いろいろなところでのいろいろな勉強、そしてその組み合わせなどが心の底からあふれ出し、その創意工夫をしているということ自体も、大いなる喜びを生み出すであろう。


結論は1つ。意志は作られ、それがまた意志となる。

blog - アイデアについて



アイデアはどのように生まれるのか?

そもそもアイデアとは何か?それはどのように活用されるのか?などを少しまとめておこうと思った。これはまだ見ぬわたしの孫へのいい情報提供ということにもなるだろう。というのも、アイデアというものの真実の姿を捉えきっていない人があまりにも多く、その経済的損失は天文学的数字になりつつあると感じているからだ。

どんなに小さいものでもアイデアはアイデアだ。例えば、最近わたしはあるアイデアを思いついた。それは、ホント大したことがないのだが、「休日や平日の夜に近くのスターバックスに行って1時間ほど勉強する」というアイデアで、このアイデアがなぜわたし的に素晴らしいかというと、勉強が実にはかどるというのがあるし、実にいい気分転換ともなるからだ。わたし的には革新的なアイデアだった。一日の勉強時間が5時間から10時間に増えた。

アイデアの生み出し方についてはスティーブ・ヤングかなんかの『アイデアのつくり方』などの有名な本を読んでいただくとして(簡潔に述べると熟考→開放→横溢というところになる)、わたしがここで特に強調したいことは、アイデアとは揮発性なものだから、つまり気をつけないとすぐ忘れてしまったりするものだから、できるだけ早く実行に移したり、何かに書きとめておくなりしたほうがいいということだ。例えば以前わたしの携帯は、他者との通信というより自己との通信に主に利用された。


アイデアは生み、そして育てられる。

blog - 最強の英語学習ツール:電子辞書



もう一番は決まりだね。電子辞書ですよ。もうこれなしでは英語の勉強なんてできないし、辞書なくして人間が知識を蓄積することなどできなかったでしょう。別に電子じゃなくてもいいのだけれど、やっぱり電子のほうがいいことには変わりない。これからポイントを述べることとしよう。

・投資を惜しんではならない。無駄遣いしてもダメだけど、できるだけいいものを買おう。だってそれとは実に長い時間を共に過ごすことになるのだよ。
・英和、和英、英英、類語、連語、その他諸々の辞書を使いこなそう。特にここに上げた5つの辞書はよく使うから、相互に行き来できるような操作を必ず覚えよう。
・類語と連語はホントよく使うことになるから、これが入っている電子辞書を選ぼう。あと、反語があればいいなと思ったことはあった。
・英英であればオックスフォード、英和であればジーニアスなど、定評のあるいい辞書を選ぼう。やっぱり完成度が違うと思うわけですね。
・学習ステージによって使う辞書、そして辞書の使い方がどんどん変わってくる。知的探究心を絶やさずに、いろいろなものに挑戦していこう。


例えばわたしの現在の電子辞書の使い方はこうだ。今はTOEICの英訳トレーニングをしているから、その英訳を終えて模範解答?を確認し終わった後、英訳しづらかったフレーズ、気になった表現、解答の中の素敵な表現などを主に英和辞典(ジーニアス)を中心に確認する。(なぜならわたしの英和は文法解説も豊富で、読むだけで勉強になるからだ)

この時、はじめて見る単語を調べることはほとんどなくて、今まで使ったことのない構文や、前置詞との組み合わせ、例文・成句などを確認する。そしてその中で、主に重要語彙について、類語辞典(Oxford Thesaurus)で類語を確認する。これがなかなかよくて、脳のネットワーク機能が生かされると共に、級数効果の語彙力強化が図られる。

マテリアルによっても辞書の使い方というのは変わってきて、例えば英字新聞を読んでいるときは、わからない単語を英英辞典(Oxford Dictionary of English)で発音記号とともに確認するのが中心になる。ここではあまり深追いしないし、する必要もない。

あとは旅行に行ったときやたまに時間をつぶすときだとかに、「英会話とっさのひとこと辞典」を活用したこともあった。電話のかけ方、切り方などを確認するときも大変役に立った(目の前にパソコンがないことが多いからね)。ま、その日本語は高度に発展しているとはいえ、広辞苑で日本語の確認をすることもたまにはあっただろう。


という感じで電子辞書はあと数年は手放せないでしょう。

blog - 時間とは何か?②



時間の概念についてもう少し解説する必要があった。一般に時は未来と過去を持ち、そしてその存在があるところに現在があるわけだ。人間という生物は高度に発達した知性から、その未来と過去を明瞭に認識しうるようになり、人生というものと時間というものを重ね合わせて見るようになったのだった。

ここに、大いなる隙間、大いなる風穴、大いなる空隙が存在し得たのだ。時と実存というねじれ構造を持つ存在に対して、人間という生物が持つその認識力の限界により、そこに様々な亀裂を生み出してきてしまったのだった。それは単純な不安とは違った。それは一時的な緊張とは違った。

単に今を生きよというのではない。その未来をも、その過去をも、そして繰り返しの幻影から発せられる輪廻が持つ宿命をも、それらをすべて含んだ形での、その現在を生きなさいというのだ。過去を現在のように生きなさい。そして未来のことを現在のように感じなさい。繋がりを、前後の繋がりを、そこに含みなさい。


存在と時間。それは極めて明瞭なのだ。

Tuesday, September 25, 2007

blog - 狼と、インドの虎。



今の会社を選んだ最大の理由は英語を使えるからというものであり、目玉が飛び出したオファー金額でもあり、または世界に飛び出さんとするIT企業に所属してみたかったというものでもあった。今思えば、どこかに不純な要素が混ざっていた。わたしは会社を愛していなかった。

今の会社に属しているのに、2年後のアメリカへの飛躍を計画に組み込んだ。そしてその1年から2年後の起業も既にプログラミングされていた。自然、今の会社に対するコミットメントは薄れ、帰属感やロイヤリティは消滅していった。独自の能力に磨きを掛け、独自に経験を積むだけだった。孤独な狼だった。

すべては会話から始まるのだった。昨年、突如世界を旅すると決意するに至った経緯もある人との会話から生み出されたものだった。そして今回も、ある人との会話の中で思わず告白した「わたしは彼らを憎んでいる」という言葉から発展したものだった。方向は修正され、わたしはわたしの会社の本を読み始めた。わたしの偏狭な心は徐々に解き放たれ、あるがままを受け入れる準備ができたようだ。

その本を読むと、実に素晴らしい企業にいるのだなとしみじみと感じられた。そう考えると、今までの様々な出来事が実にうまく結びつき、その感情を支える土壌となるのであった。その会社はインドの会社であり、日本人のわたしとしては中心にいないという感を感じざるを得ないのであるが、それは消極的で厭世的な気持ちがもたらす幻であり、わたしはグローバルな人間であり、わたしはその一員になることを感じ始めたのだ。


そう、わたしは今を生きはじめたのだ。──わたしは虎、インドの虎だ。

Monday, September 24, 2007

blog - 英語ひとり言2週間目



これもかなり必須的ですね。

いわゆる英語のwhisperingですね。やはりTOEIC950越え、英語達人への道を目指そうと思ったらこの英語Whisperingは必須であると感じますね。まだ2週間くらいで、しかも完全に自分のものにしているわけではありませんが。ただ、つよーく感じはしますね。つよーくですね。

ひとり言といっても怪しいものではなく、Thinking in Englishを実践するということですね。英語力があるレベルにいくと、これが可能になってきますね。逆にそのレベルまでいかないと、非常に危険な練習法となりますね。挫折しますね。思考が衰退しますね。

そして完全に英語で考えてはダメですね。それは無理ですし、せっかく今まで発展させた日本語での思考力というものが生かされなくなりますからね。だから意識的に英語で考える時間を作るわけですね。仕事で英語を使う30分前とか、Vlogを撮る30分前だとかですね。何か実際に英語を話す前にやると効果的ということですね。いずれ、できるはずですね。


Thinking in Englishがおそらく1つの究極のトレーニング法ということになるだろう。であるからしてこれをするために、今までの学習があるのだと思い込むようにしたほうがいい。そうすれば段階的思考法というものが花開き、新しい世界が目の前に開けるであろう。 I'm whispering.

blog - Japan Times音読2週間目



これはかなりいいですね。

TOEIC950越え、もしくは英語達人に向けて、このトレーニングは有用であるばかりか必須であるような気がしてきましたね。効果は様々な分野に及びますね。まず、スピーキング力の向上、そして語彙力の向上、さらに全般的な英語というものへの認識力の向上というものになりそうですね。

やることは簡単で、英字新聞を定期購読し、それを毎日音読(声に出しながら読む)するのです。ただし気をつけなければならないことは、やはり自分の現在の能力ステージを明確に認識して、今の練習法として適しているか適していないかを正しく判断することですね。わたしはTOEIC900以上あたりからだと考えます。

わからない単語があれば辞書でもちろんチェックします。1ページに5つから15個ほどわからない単語が最初のうちは出てくるでしょう。しかしあなたは今は感じるはず。この辞書を引くというアクティビティは必ず語彙力向上に資することになるということを。そしてあなたの舌は徐々に滑らかになってくるはず。どんな高度な文章も滑らかに話すことができるような。


フレンズもそうだが級数的に能力が向上していくのを感じる。つまり能力が相互に援用されるのだ。

blog - 時間とは何か?



思索的な本を読みながらわたしは考えた。時間とは何か?

時間に対する考え方が大いなる苦しみを生み、大いなる悲劇を生んできたのだ。時間というこの世でも最も大きな軸のうちの1つに対する一見正しく、しかし大きく誤った見方が世界の辛酸を生み、いつまでも繰り返される復讐劇を生み出してきたのだ。

と、ここまではその本に書いてあったことを書いたまでだが、この話は実に納得できるものを含んでいるのであった。わたしは時間に苦しめられてきた。いや、ほとんどの人々が苦しんでいるものはこの時間というものから生み出されているように思えた。人生と時間は大きく同じものを指すけれども、それを分けて考えることができたのなら。

わたしが先月から今月にかけて感じた無限と思われた思想の奔出は、それは未来の完全性をなんら保証しないものであるということをわたしは明確に認識していたが、ただしかし、何らかの土台、何らかの拠り所、何らかの精神的足掛かりとしてわたしの未来に大きな影響を、良い影響を与えるということを同時に感じていた。それは間違っていなかった。


時間の超越とは一体どういうことか。それがこんなにも明瞭とは。

Sunday, September 23, 2007

blog - はじめてのトレーニングセッション(英語)

先週の金、土にはじめての英語でのトレーニングセッション(リーダーシップ)を受けてきた。内容はどうってことなかったんだけど、英語でどのようにセッションが展開され、そこでどのようにポジショニングされるか、そしてインド人たちがどのような態度でそのセッションに臨むのかなどを観察できる非常にいい機会だとわたしは考えていた。

講師の英語はわかりやすくほとんどの内容は理解できたが、英語で発言するとなるとそれはやはりまだまだ日本語でのそれと比べると非常に苦労を感じるのだった。それに比べインド人たちのよく話すことといったら、それはある種のカルチャーショックを感じざるをえないほどであった。TOEIC対策が停滞してしまう危険性があったが、それは十分に満足のいくものだった。わたしは新しい何かをまた学びえたのだ。


わたしは胎動、鼓動、息吹を感ずる。その日は近いであろう。

Thursday, September 20, 2007

blog - CNN3年目



わたしのiPodに音楽は存在しない。

わたしは確か2年半前くらいに買った初代iPodからCNNを毎日聞き続けているのだ。iPod & iTunesほど英語学習者にとってありがたいツールはない。何しろただで簡単に様々なコンテンツが手に入るからだ。

音楽を必要としない人間にとっても、または目標を達成するために音楽を意図的に避けている人間にとっても、それはそれはありがたいものなのだ。わたしのiPodに音楽は存在しない。それは事実であり、ポリシーなのだ。


Good luck with your iPod!

Wednesday, September 19, 2007

blog - 休止されたロック・クライミング

わたしがもう1つ報告しなければならないことは、わたしは現在クライミング活動を休止しているということです。おそらく9/30(日)までそれは休止されるでしょう。言わずもがなですがそれは950点のためであり、というよりも完全に痛めきってしまった背中と腰と手首を正常な状態に回復させるためなのです。

物事には山と谷があり、運命をある程度自分で制御していると信じ込んでいる人間には、それを適切に時間軸に落とし込むことによって、効果的な人生が送り得ると思えるのです。だからわたしはこの書き込みを振り返るであろう1年後に、果たしてわたしがそのような人間だったのか、または何か変化し始めていたのかを冷静に判断することができるわけです。はっきり言って自分でも書いていることの意味がわかりづらくなっています。

考えようによっては現在一日7時間以上の英語の勉強をしているということもあり(または見方をより変えれば、というか仕事の時間も英語の勉強にカウントできるのであれば、実際それはある程度できるわけですが、わたしは1日10時間以上をTOEIC対策に費やしているということになるでしょう)、少し文章がおかしくなっているとわたしは断言できるわけです。うん、これも少しおかしいですね。要は裏で英語が意識されているのですね。


Let's have a break!

blog - フレンズ4回目



えーとですね。今『フレンズ』(アメリカTVドラマ)の4回目を見ているわけですけれど、この前も少し書きましたが、今までの3回に比べ、格段に英語の聞き取りができていることを感じるわけなのです。かなーり聞こえてるわけです。かなーりです。

ということでわたしはわたしの著書の中でこう言わざるを得ないでしょうね。「最低5回の視聴に耐えられるような作品を見つけ、それを定期的な間隔で見ましょう。映画・ドラマはいわば「おかず」。ストレッチしながらだとか、ご飯を食べながらだとか見てOKなんです。生きた表現の宝庫として思いっきり活用しましょう」。

思いっきり主題がぼやけてしまったが(汗)、わたしが言いたいことは、同じことを繰り返すことによって成長をより明確に認識できて、たまらなく嬉しくなってしまうことがあるということですよね。わたしのフレンズ5回目はおそらく来年の渡米前になるのでしょうが、その時にはいよいよ完全な笑いを腹の底から上げているでしょう。


乾杯!

Tuesday, September 18, 2007

blog - 観測史上初めての敗北



株のことですけどね。

今日損切りしました。生まれて初めての投資での負けということになります(厳密に言えば2回目だが細かいことはこの際どうでもいいですね)。これは少し自分の将来に教訓として生かすために是非このブログに書いておかなければと思ったわけですね。失敗に学ぶってやつですね。

ぶっちゃけまあまあの金額ですね。まあ今までの利益や中国株が抱える含み益に比べればどうでもいいような数字ですが、数年先に1億を目指していた男として、これは確かに大きな挫折を意味するわけです。つまり明らかになったわけです。わたしは株の天才でもなく、すべてを読めるわけでもなく、冷静で賢明な投資家でもなかったことが。

ま、ただ、今回のことはいい教訓になったと思うんです。その投資先は結局35%くらいダウンしたわけなんですが、ハイリターンを求めすぎた結果、つまり投機に走ってしまった結果、必然的に失敗したと。面白いことに当時は投機なんて意識は全然なくて、割安株にしめしめと投資したと思っていたのですが、振り返れば、それは無配株であり、欠損企業であり、賢明な投資家が投資を行う投資先ではなかったわけです。


ま、いい勉強をしましたよ。すべては流転します。

blog - 続・運命の日、9/30(日)に向かって



わたしは9/30のTOEICテストの後、何を行うかをリストアップするのを忘れないのだった。それはTOEIC950点は通過点にしか過ぎぬことの現れであり、わたしはわたしの目標に向かってどんな空白の時間も過ごしてはならないわけだから。

■9/30後
・4冊ほど購入した「日本の文化を英語で説明する」系の本に取り掛かるだろう。わたしはその過程でいろいろな英語発信のテクニックを生み出し、1年後くらいには英語で立派なスピーチができるほどになっているだろう。実はVlogを密かに始めたりしているのだわたしは。

・英語ブログが完全に日本語のブログから乖離し始め、独自の成長路線をたどることになるだろう。つまり英語を主な言語とする人々に対して彼らにわかりやすい言葉でわたしは話し始めるのだ。わたしが伝えなければならないことについて。主に日本のこと、フルーツについて。

・鈴木孝夫氏はその学生時代に英字新聞をひたすら音読すること1日5時間ということを既に述べた。わたしはそれを真似して1日30分くらいを確実に英字新聞の音読に費やすことになるだろう。わたしのボキャブラリーと表現能力は飛躍的に向上し始め(そう、それはオーマがその名を手にしてからのその知性のように)、わたしは縦横無尽にインド人たちとディスカッションを始めるだろう。

・ITに関する基礎的な英語力の確立というものを、少なからぬ時間を使って実現させるだろう。これはそのさらに1年後から始まるいよいよのアメリカへの挑戦というものを確実にするための大いなる土台になるだろう。そしてその基礎の上に、わたしはわたしの塔を立てるだろう。それは最初はもろいものだろう。しかしわたしはすでにためらいを感じていないのだ。

・文学か、音楽というものに対象が向けられるだろう。それはニューヨークそしてロンドンで誓ったリベンジを果たすためであるが(わたしはニューヨークとロンドンでミュージカルがほどんど理解できなかったのだ)、それは幅広い英語表現力、そして感情表現というものにまで効果を及ぼすことになるだろう。これもアメリカで数年間生活するには必要なことだ。


■最後に
実家に久しぶりに帰り、『風の谷のナウシカ』(ワイド版)を読んだ。あまりに難解過ぎ、そして筋が見えにくいというのがあったので完全に消化できなかったわけだが、それでもナウシカの態度にわれわれは多くのことを学ぶことができるのは明らかだった。そして(初ビリーで強烈なまでの筋肉痛になったのは置いといて、)Barack Obamaが最近みせる演説の素晴らしさを目にし、わたしの決意はますます確かなものになりつつあるのだった。


信じる道を歩め。

Monday, September 17, 2007

blog - 運命の日、9/30(日)に向かって



まあ実は9/30に950点取れなかったら11月にもう一回受ければいいかな、なんて思ってしまったこともあるのだが、その日に向けていよいよエンジンは100%稼動を始めたようです。3連休を含めすべてのリソースをこの目標に向けて投入するでしょうわたしは。

じゃあ今回は、わたしはこのテストに向けてこの2ヶ月何をやってきたか、そしてあと2週間何をやるかをまとめ、その9/30の後に何を迅速かつ的確にやっていくかをまとめてみようと思う。まとめればその過程でアイデアも浮かんでくるし、まとめたものを後から見てもアイデアが浮かぶわけだから。

■950をとるために
・950点は帰国子女のレベルだとわたしは位置づけた。それは今の職場で一緒に働いている帰国子女のエンジニアがどのように語学を活用しているかを見れば、その英語力は推し量ることができた。そのレベルは遥か上のようにも感じたが、1点集中して状況を打破すれば、不可能ではないのではないか、わたしはそう思ったわけだ。

・課題はリスニング力とスピーキング力に集約できた。ライティングとリーディング(文法含む)はもしかしたらダメなのかもしれないけど、見劣っているとは思えなかった。そしてリスニングについては、わたしは聞くそのものよりも、何か英語理解の本質的なところが弱いのではないかと考えたのだ。そしてそれがスピーキング力の欠如にも繋がっていると。

・英訳、つまり日本語から英語にする作業をわたしは意図的にこれまで回避してきたのだった。それは英語を英語のまま理解する、または日本語を介さずに英語を話せるようになるということを意識してきた結果の方針だったように思う。完全に悪いことではなかったが、今思えば『英語は絶対勉強するな』の悪影響だった。それはネイティブではない人間にとって必要なことだった。

・だからわたしは主にTOEICの教材を活用しながらひたすら英訳の作業に時間を費やしたのだった。TOEICの問題集には日本語の対訳がついているから、それを英語に訳すわけだ。ノートに書き込むのだ。そして正解?と見比べながら、いろいろなことを思うわけだった。電子辞書をここぞとばかりに使うわけだった。英語が完成されてくるのが実感できたわけだった。

・このトレーニング方法がTOEICのリスニングセクションに直結するか、スピーキング力に直結するかは今の段階ではわからない。それは9/30の3週間後の月曜日に判明するだろう。わたしは楽観的な期待を寄せているわけではあるが、つまり950点を取れるようなリスニングの点数となって効果が現れるのをわたしは予期しているのではあるが、力を出し切ればそれはそれで満足できる感触を得られるだろう。


■諸々今やっていること、、、
・TOEIC英訳
・読書"Bangalore Tiger"他
・英字新聞Japan Times音読
・句動詞(Phrasal verb)特訓
・仕事での意図的な英語会話
・仕事での意図的な英語メール
・英語ブログ
・CNN、BBC with iPod
・フレンズ4回目(おそろしく聞き取りができるようになっている。。)
・Javaの意図的な英語での学習
・スピーキングの学習(日常の表現550、日本の文化)
・英会話レッスン(週一回、Christieと)
・Obamaのスピーチなど


The sun will rise, eventually.

Tuesday, September 11, 2007

blog - 鈴木孝夫その後「日本語と日本文化」



もういいような気もするがもう少し鈴木孝夫さんについて書いておこう。彼はもともと英語を猛烈に勉強していて、エピソードとしては学生時代に英字新聞を購読し、毎日5~6時間音読に費やしたらしい。これのおかげで後に初めて海外に行ったときも、日常会話への慣れは若干必要だったらしいが、ほとんど英語には困らなかったらしい。英語をマスターした人は多大な努力を積んでいる。彼はそう言い切る。

彼は言語学の道に進んだが、日本語と英語を比較研究するうちに何か重大なことに気づいたに違いない。今まで誰も気づかなかった日本語の秘密、日本語の秘密に宿る日本という国の特質、日本と欧米との民族的な気質の違い。そういうものが彼の鋭い分析能力によって炙り出され、その後の比較文化論的な鋭い考察に繋がっていったのだろう。

彼は日本語の持つ素晴らしいところに気づき、そしてそれとともに日本の素晴らしさに大きな感動とともに気づいたのだろう。そしてまさに学際的な知見から、現在の彼の考えを導き出したのだった。日本の素晴らしさはまさに日本人が持つ素晴らしいところであり、それは人を慮る繊細な情念だったり、平和を愛する気質だったり、繋がりの中に存在を見つけ、動植物の中に輪廻を見つけ、深さを、とことんまで追及するところだったりするのだ。


もう切りがないのでこの辺で終わりにするが、わたしはわたしの家を見つけ、そこに根を下ろして、堅実な活動を開始したのであった。そう、日本的な。

blog - 英語に関する今後



を少しまとめておこう。

9/30まで、すなわち次回のTOEICテストの日まで、わたしはわたしが秘策として考え出した勉強法にて徹底的なトレーニングを積むことになるだろう。すべてに優先してこのタスクが遂行され、わたしは歓喜のうちにTOEIC950を成し遂げることを予感している。歓喜とは少し言い過ぎであり、これは通過点の1つにしか過ぎない。

9/30のTOEIC終了後から、わたしの英語学習の方向性は大きく変化することになるだろう。すなわち既に購読の申し込みを済ませているJapan Timesの音読トレーニングは最低条件として、日本文化・歴史のことを余すことなく外国の人々に伝えられるような英語力を身につけるようトレーニングを積んでいくだろう。既にTOEICレベルから達人レベルへと目標はチェンジしているのだ。

完全な状態になるために、以下のようなことを実践するだろう。①ブログについて、日本語で書いてきたすべてのトピックを英訳する。そしてかなり内容のある英語ブログを書き始める。②ITについて、ITについてのいい素材を開拓し、この分野で本を書けるようなレベルの英語力を身につける。③分野を絞って(それは栄養学や仏教などになるだろう)、英訳トレーニングを中心に高い英語力を身につけていく。


今はすべてがクリアで、そこへは何の障害もない。

Sunday, September 09, 2007

blog - 鈴木孝夫まとめ「本質的価値」

現象を語るだけなら誰にでもできることだが、その現象を起こす真実の原因を探るとなると、それは誰しもできることではなかった。

日本の学生が自分または自国に対して自信を持つ比率をアメリカ・中国などと比べると歴然たる違いを見せること。アメリカ・中国ではセルフサービスが機能せず、また、信号を律儀に守る民族は日本人が唯一であること。このようなことを感じていていたわたしは今までの出来事を今回の思索で完全に1つにできたのだった。今回の本がそれの触媒となった。

以前にも言ったように、読書というものは固有の性質と固有のタイミングを持つものだ。だからどんな本でも人が変わればその印象は大きく異なってくるし、読むタイミングによって持つ意味がガラッと変わってくるのだ。わたしは今回最高の形でこれらの本と出会ったと思うし(それは英語の学習、比較文化論への興味、「何か」を期待する気持ちなど)、それを記録しなければならないと思ったのだ。大きくまとめると次のようになると思う。

・日本人であること。
・英語で価値を伝えること。
・青い鳥を見つけたこと。
・新しい思考形態を手にしたこと。
・世界とのつながりがドラスティックに変わったこと。


さあ、はじめようか。

blog - 鈴木孝夫⑤『日本人はなぜ日本を愛せないのか』



この本は題名だけ見てもこれが言語学の本だとは思われないし、実際、これは言語学の本ではない。では言語学の勉強をしようとしていたわたしがなぜこの本を買ったかというと、鈴木孝夫氏の論述から感じられる「何か得体の知れないもの」への答えを探し出すためであったように思う。

これは2006年に刊行されたので彼の最新作ということになるだろうと思うが、ここに何か総決算的なものが詰まっているとわたしは予想していたのだ。わたしは既に英語学習において既に明確な新しい指針を前4冊の中から見出していたが、その「何か得体の知れないもの」を探し出す必要性に迫られていたのだ。

そしてついに先週からこの本を読み始め、今回のブログを書くに至った重大な心的事件がわたしの胸の中で起こったのだ。ただわたしははっきり言おう。わたしのこの心的事件はこの本によってのみもたらされたものではなく、それは単なる触媒として、または蛇口として、30代最大級の大事件をわたしにもたらしたのだった。

・第1章「素晴らしいものは、海の向こうからやってくる」-彼の言うところによると日本ほど他の国を礼賛する国はない。そして欧米人と日本人では根本的に思考形態が異なっている部分がある。彼はもともと言語学者だったが、日本と欧米の比較をしているうちにこの重大な事実に気づき、その論説を発展させたのだった。

・第2章「外国の醜いところが全く見えない!?」-アパルトヘイトがなぜ生まれたのか。奴隷制度とはどういったものだったのか。パレスチナ問題とは一体どのような問題なのか。なぜ「陪審員制」が日本に定着しないのか。このような話が流れるように解説され、今までも同じような話を誰かが話しているのを聞いたことがあるような気がするが、それとは異なるレベルでわたしに認識されたのだった。

・第3章「魚介か家畜か」-この章では動物性食料源の違いに由来する世界観の相違について言及する。キリスト教がなぜ日本で普及しないか。魚介文化と家畜文化の決定的な違いとは何か(それは彼は相手(対象)を支配しようとする「意思」の有無などと言う)。生体加工や罵り言葉について。そしてかつて、日本人は動物と人間をどんな関係でとらえていたのか。そして輪廻転生、宗教の違いについて。

・第4章「外国は、「話せば分かるか?」-世界は有史以来戦争や争いの繰り返しの歴史であったが、日本はそうではなかった。大航海時代の本質を見抜きなさい。そしてフィクション文化とファクト文化の違いについて(イスラエルはフィクション、日本はファクト。だからその言動に違いが出る)。

・第5章「部品交換型文明の光と影」-部品交換型文明とは日本の文化の性質の1つを表す彼が命名した言葉で、日本が過去外国のいい部分を部品を交換するように部分的に取り入れてきたことを指す。例えば古くは中国文化であり、最近であればイギリス・アメリカなどである。そして彼はこの性質は光と影を持ち、光は明治維新に代表されるように変化を迅速にこなせること、そして影は自国を卑下し、諸外国を必要以上に礼賛する傾向が強くなってしまうこと。

・第6章「日本人の自信回復のために」-歴史を知ること。特に大東亜戦争がなぜ起こったか、それをよく知りなさい。

・第7章「「地救原理」と日本の生き残り戦略」-世界第二位のGDPを誇る経済力を持ち、教育が非常に高い一億三千万の国民が、二十一世紀の文明のあり方をどう考えるかで、地球の相貌と未来が大きく変わるのだっということを認識しなければなりません。彼はそう言う。特に環境問題に対して日本が果たすことができる役割は甚大。そういうことだ。


わたしはこの本で明確に知ったわけだった。わたしは日本人だと。

Thursday, September 06, 2007

blog - 夏の頭は感じやすい



どこかの出版社のキャッチコピーだと思ったが、この夏の頭は感じやすいというのはどうも本当のことのように思える。なぜなら禁酒という素晴らしいアイデアを思いついたのも夏であったし(それは去年の夏のことだ)、そして今回明確に意識下で進行している重大なパラダイム・シフトも夏に起こったことだからだ。

わたしが思うにそれは暑さのせい?かなと思う。だからわたしは若者たちに勧めたい。エアコンをなるべく使わないこと。汗を大いに流し、その分スイカや梨から水分を補給すること。ぼーとするときはぼーとすること。機会を機敏に捉え、全身全霊でもって行動を開始すること。暑さによるだれがあるからその後の奔流があり、厳しい冬があるから夏の暑さが大いなる契機となる。


いずれにしても機会を逃さないこと。

blog - 鈴木孝夫④『日本人はなぜ英語ができないか』



そして4冊目で題名としては最もわたしの興味を引くと思われるこの本を読んだわけだった。わたしもわたしなりに英語というものと英語学習というものをもう数年間も考えてきたわけだったから、滅多なことでは驚かないはずだったが、もう思わず膝を叩く頻度といったらそれは半端ではなかった。

今思えばある人物に対するこのような印象はわたしが尊敬する人物のほぼすべての行動に対するそれと同様であって、それは例えば小泉前首相やバラック・オバマであったりするのだが、この本を読んでいる辺りからこれは単なる名著との出会いではないなと感じ始めていた。

この本が前3冊と異なるところは、明確に日本の文化・文明論を展開しているところだった。日本と世界の関係が大きく変化していることを明瞭に述べ、その英語の役割も変化していることを実に雄弁に語るわけだ。つまりインプット中心の言語から、日本発の情報を世界へ伝えるための言語へ。

・第1章「外国人に憧れる日本人」-日本人は外国語(及び外国そのもの)に漠然とした憧れを抱いていると。その理由と背景を解説し、現状を改める必要性を強く訴えるのだった。彼は明らかに日本と日本語を愛していた。

・第2章「何を目的に外国語を学ぶか」-ここで彼の大きなテーマのうちの1つが明らかになるのだった。つまり現在の日本は昔の日本ではなく、優れた外国(この文脈でいう外国とは当然欧米のことだったり、古くは中国のことだったりする)から技術や思想を導入する立場から、日本が持つ優れたところ(それは島国日本が生み出した稀有の哲学であったり、日本の美しい伝統や歴史であったりする)を世界へと伝える使命を負う立場へと変化しているのだ。

そしてこの章で面白いところは、外国語学習第どの類型を定義し、実例1として中国:自己顕示・自己宣伝型、実例2としてアメリカ:他者攻撃・折伏制御型、実例3として日本:自己改造・社会改革型を上げているのだった。もうこの辺は面白くて仕方なかった。

また言語の側から見た三類型ということで目的言語、手段言語、交流言語を上げ、英語というものはこのすべての要素を含んでいることを明らかにしたのであった(朝鮮語・アラビア語は目的言語のみ、ドイツ語・フランス語は目的言語と手段言語)。英語は唯一無二の国際補助語だと。

・第3章「英語の三変種」-ここからも独特の視点なんですよねー。使用者との関係から見た英語の3変種ということで土着英語、民族英語、そして国際英語というものを上げ、土着英語としてイギリス・アメリカ・オーストラリア・カナダ、民族英語としてインド・フィリピン・ナイジェリア・シンガポールという使用される地域を上げたわけであった。要は日本人は国際英語というものにフォーカスしなさいと。そうすることでそこへのアプローチも当然変わってくると。こういうことを非常にわかりやすく説明していくわけです彼は。

・第4章「外国語教育をどう改革するか」-発信型への転換と学習言語の多様化ということを上げている。彼はまったく正しいとわたしは思わざるを得ない。そしてこの章の最後でこのようなことを言うのだ。「(発信型への転換は)日本が一切の国際紛争を武力で解決することを捨てた、人類社会初めての大国であるだけに、他のどの国にもまして必要なことなのです。」

・第5章「英語が身につく授業とは」-この辺から実に現実的な提案へと移っていくわけであるが、「国際理解はやめよう(英語の授業の中で)」や自己表現中心、読むことは必要、外国の新聞・雑誌は不適切、「日本のことを英語で学ぶ」などが展開されるわけです。この中で面白かったのは「大学での英語は日本物の英訳中心に」かな。

・第6章「英会話の学習にひそむ問題」-ここで彼はネイティブの先生から受ける英会話の授業に潜む危険性について言及したのであった。文化人類学的な側面からの鋭い指摘であった。もうこの人はとんでもない人ですよ。

・第7章「日本式英語の必要」-シンガポールやインドのように日本式の英語の確立というものを彼は提唱するのであった。この辺は言語学者にしか言えないことだな。

・第8章「英語で日本文化の発信を」-この章を読んでいる辺りでAmazonで日本の文化を英語で説明する系の本を4冊ばかり購入したのだった。9/30のTOEIC950奪取の後、わたしの英語学習の方法は大きく発展することになるだろう。詳細はまた別に述べていきたいと思う。

彼はこう言う。「日本人は今、金額の額で計れる経済的なお返しよりも(※この文脈のおけるお返しとは日本が今まで世界から学んできたものに対してという意)、もっと大切なお返しができる立場に、歴史始まって以来初めて立っていることに気づくべきなのです。それは私の言う素晴らしい日本の文化文明を一人占めせずに諸学国に広めて、世界の人々と共有することです。」


わたしはこの本でもって「受信型」から「発信型」へ英語の使い方を大きく改めることを誓ったのであった。

blog - 新しい目標の提示

鈴木孝夫さんとの出会いの中で最も具体的なメリットを与えたものといったら、次のものをわたしは挙げざるを得ないだろう。

・日本文化の発信の必要性
・人格の定められた方向に対しての成長性
・知性との出会いと、アイデンティティの発掘性


名著との出会いは時に時間を縮めるであろう。

Wednesday, September 05, 2007

blog - 鈴木孝夫③『教養としての言語学』



われわれはわれわれが健全であるとき、すなわち何の障害も感じず、何の苦難も感じないようなとき、われわれはわれわれが思う最大の力を発揮するのであって、それが本当の力かどうかは全くわからないのであった。

考えてもみよ。オーケストラ鳴るときのその指揮者のその針の、いつもは見せぬその働きの、力強い働きを観察せざるを得ないとき、われわれはその本質を何よりも感じるのであって、思考だとか、思想なんていう言葉はもうどうでもいいはずでなのであった。

わたしの読者のうち何万人という人はわかるまい。わたしがナウシカを見て感動するのを。わたしがラピュタを見て童心に返るのを。わたしがトトロを見て懐かしむのを。わたしは既に何らかを掴んでおり、前述のものは単なる比喩であり、わたしはいよいよわたしの進むべき道に進んでいくことを。

さて、解説に入ろう。

・第一章 「記号としてのことば」 - わたしが以前知ったその最低の言語学者は人類以外に言語を用いている生物はおらず、もし何らかの記号を用いて通信を行っていたにせよ、それは言語学としてわざわざまとめるまでもない。そう彼は言い切ったのだ。何という誤謬!何という稚拙!鈴木孝夫さんは表しきったではないか。この章で鳥と、蜜蜂と、猿の「ことば」を。彼の言葉を聞くといい。

・第二章 「ことばの働きとあいさつ」 - まずロマン・ヤコーブソンの言語の六要素と六機能を解説し、これらにのっとり自身の論をすすめていく。あいさつが文化人類的にどのような意味を持つかを言葉の面から詳細に分析し、中でもその集団での力関係の記述について彼は怠りなかったのであった。 当たり前だ。彼は文化人類学者でもあるのだもの。

・第三章 「指示語の仕組み」 - 指示語というものについて、他の用語とは区別される特殊性を述べながら、図と絵などのツールを使いながら、彼の言語学における成果を示したのあった。つまり「彼」「彼女」と本来二人称のところで三人称が使われた場面に対して類型化するとともに、何かを大きく語っていたよ。

・第四章 人称をめぐる諸問題 - 前作に引き続いて人称(つまり私、あなた、彼/彼女といった表現)について解説を進めた。人称に関する表現の違いに文化人類的な違いがあるんだとばかりに論を進めたがっていたが、あまり進展はなかったような気はするのであった。

・第五章 「言語干渉」から見た外来語 - 彼は外来語(いわゆるカタカナ語)の弊害をいろいろと述べるのだが、その例としては、自動車の車名や、花の名前が上げられるわけではあるが、そして彼はいろいろとこの言語干渉について類型化を試みるわけではあるが、わたし個人としては、ある程度のカタカナ語は受け入れるべきで、メリットがそのデメリットをある範囲は上回ると思うわけです。ここだけが唯一、彼とわたしの意見が大きく異なるところで、ただ、その大きな本筋には何らの影響を与えないのであった。わたしは彼の講演を聞いてみたいと常々思うようになった。


人を知れ。そこに言葉がある。

blog - 心の拠り所について

まったく思いがけない言葉だった。

心の拠り所。このような言葉がわたしの中から出てくるとは。それを明確に認識しうるとは。わたしはその驚きでしばし呆然とし、スターバックスでソイラテを飲みながら、その仄かな温かみを感じたのだった。

もの考える学生の頃、わたしは連帯というものについて考えを巡らせた。その働きと構造を学び取るとともに、そこに非合理さや弱さをわたしは感じ取ったのだった。わたしは強く、鉄と鋼でできた精神を求めていた。答えは氷のようだった。

わたしはそのソイラテ・グランデを口に運ぶその一瞬に、世界中を隈なく旅し、ローマの戦士を見、幕末の志士たちをつぶさに眺めたのだった。それとともに生を受けてからその一瞬までを何往復もし、考え、そしてわたしはわたしを手に入れたのだった。


もう迷うことはあるまい。

blog - 悩みと絶望感について

今なら間違いなく言える。若者よ。それは証拠だと。きみは人生を真正面からとらえていて、だから悩むのだと。だから絶望を感じるのだと。そして次のことは明らかじゃないか。絶望の後には希望が訪れ、冬の後には春の日々が到来する。それは真正面から見てきたからだ。決して逃げなかったからだ。逃げ続けなかったからだ。すべての光はきみのあがきに共感するのだ。

blog - 鈴木孝夫②『日本語と外国語』



ちなみにわたしは鈴木孝夫氏の本を先々週から5冊読んでおり、それは以下の順番なのであった。

1. ことばと文化
2. 日本語と外国語
3. 教養としての言語学
4. 日本人はなぜ英語ができないか
5. 日本人はなぜ日本を愛せないのか


実は五冊目はまだ途中だが、『ことばと文化』でこの人は本物だとわかってから代表的なところをAmazonでがつんと一括購入し、年代別に読み進めたわけであった。言葉に関する大きな発見があった。そして何より氏の鋭い考察がわたしの脳をインスパイアし、様々な観念が所構わずわたしの中を行き来し、わたしの中ですべてがつながったのだ。

すべてがつながったのだ。わたしの今までのこと。世界の成り立ち。戦争と平和。ナウシカと腐海。チルチルとミチル。わたしの思考形態。そしてわたしの帰るべき家。すべてが電撃とともに解明されたのだった。今までの失敗。これからの失敗。わたしの闇と希望。進むべき道。生き方。好みの女性。そして心の拠り所。

ここしばらく寝れそうにない。この未曾有の大発見を克明に記録しなければ。夏目漱石の『こころ』を実家で読み返したときに感じた、トルストイの『人生論』を布団の中で読んで感じた、そしてアレン・カーの『ダイエット・セラピー』を読んだときに感じたどのパラダイム・シフトよりも大きなものだと思えるこのパラダイム・シフトを。

すべてが伏線だった。去年ニューヨークとロンドン、そして北京を見てきたこと。小金井公園で社会人にもかかわらず自転車でこけてあごを8針縫ったこと。そしてそのせいで髭を生やしたときに禿ができたこと。今までの失敗。ダークサイド。出会いと別れ。空回りと永遠に続くと思われた沈黙。英語との出会いと転職。そして空虚と、それを埋める滝。

おっと、前置きが随分長くなったしまった。本の解説に入ろう。

・第1章「ことばで世界をどう捉えるか」 - ことばは「もの」そのものというよりも、その「もの」をみる人間の捉え方である。だから民族が違えばその言葉の定義に大きな違いが現れてくるし、それは数多くの例から示すことができる。オレンジ色の車、フランスの黄色い封筒、りんごの色などが出てきた。

・第2章「虹は七色か」 - 第1章とほぼ同じ内容だが、虹という1つのテーマをもとに言葉というもの、認識というもの、そしてその歴史の中での展開を見事に解説していたように思う。

・第3章「日本人はイギリスを理解しているか」 - ここで一気に文明論、文化人類論の色が強くなってくる。イギリスの靴屋に靴べらが置いていないこと、運動会の商品が現金であること、英国人が絶対に食べないものなどを分析。言葉が単に言葉ではなく、人間そのもの、もしくはその歴史や思考形態を表すものであることを彼は完全にわかり始めていたのであった。

・第4章「漢字の知られざる働き(1) 音読みと訓読みの関係」 - わたしも漠然とは感じていたことであったが氏は見事に漢字の働きについて分析を行ったのであった。実証的かつ理路整然としており、アルファベットと漢字、英語と日本語をあらゆる角度から分析し、見事に言葉の本質を抉り取った。これはソシュールにもできないことだし、チョムスキーも同様だ。(当然だ。彼らは漢字を知らない)。中でも高級語彙(閉所恐怖症や足病医など)における英語と日本語の比較のところは涙が出たね。

・第5章「漢字の知られざる働き(2) 視覚的弁別要素の必要性」 - 第4章の続きだが、ここでは欧米の言語と日本語の比較についてさらに分析を進め、音韻・音節構造の分析(日本語はこの点についてかなり貧弱なのだ)、意味構造の抽象性に関する分析(日本語はより抽象的で、英語はより具体的となる)、そしてそれらを踏まえたうえでの漢字の重要性。最後は外来語バッシングと、日本語への想いで締めくくると。


ここまではほとんど言語学の領域で、言葉ってホント面白いって感じ。徐々にこれが変化してくる。

Tuesday, September 04, 2007

blog - 『青い鳥』



メーテルリンクの『青い鳥』を以前読んだことがあるが、わたしは今回この本について何かを発言せざるを得ない。筋自体は実に単純な話で、幼い兄妹チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探しに旅に出て、その長い旅路の後、隣の家でそれを発見するという「実は近くにある」という話である(と理解しているが違っていないことを祈る。Amazonの書評を見たらいろいろと書いてある)。

わたしは実は同じような心持ちだったのだ。何もかも捨てて、一人遠くの世界へ夢を求めて、大きな成功と失敗があり、しかしいずれはまた戻ってきて、そこで何かを見つけるのだろうと。それは30代の後半か、もしかしたら50、60になるのかもしれないと。チルチルとミチルがそうであったように、それを予期しつつも、旅に出ざるを得ないと。その為の旅だと。

ここ数日の様々な邂逅により、わたしはチルチルとミチルが隣の家の少女の肩の上に止まっていた青い鳥を見つけたときの驚きと同じような驚きを感じたのだった。時空が前後し、わたしは確かにそこに見つけた。わたしの青い鳥だ。まったくの前触れもなく、遠いアメリカを旅することもなく、大きな絶望と挫折を味わうこともなく、わたしは見つけ得たのであった。


間違いない。わたしは見つけた。

Monday, September 03, 2007

blog - 鈴木孝夫①『ことばと文化』



わたしは純粋にというか単純に言語学というものを勉強してみたくて、いくつかの本を手に取って読んでみたわけだった。その中の1冊が鈴木孝夫著『ことばと文化』であり、これは言語学の入門としては幾分異色の感があったが、73年刊からの高評価がわたしを引き付けたのだった。

わたしはいい本にめぐり合えるという幸運に感謝しなければならない。そしていいものとそうでないものを判別し、いいものから学びうるという能力に感謝しなければならない。その1冊はそこから始まるわたしの思想の遍歴の序章にしか過ぎなかったわけだが、わたしはそこに確かなる知性を見出したのだった。

・まずbreakの分析でわたしは参ってしまった。breakと「わる」、「おる」、「きる」、そして「こわす」などの分析と、ことばが持つ本質的な役割について彼は明確に述べた。わたしは同意した。

・そしてH2Oを表す言葉がマレー語でair、英語でiceとwater、そして日本語で氷、水そして湯と数が異なり、それが言葉の持つ性質をうまく表現していた。わたしは感嘆した。

・さらに象の鼻を英語ではnoseと言わないなどという一見どうでもいいような話から始まり、民族が持つ固有の認識というものを明らかにした。そしてこれが彼を言語学者にして民族学者にするのだった。

・そして基準だとか、ことばの意味、ことばの定義という面白い話があり、「石」や「いたい」や「しぶい」などの辞書における循環定義に触れ、ことばの本質を洗い出した。分析しつくすところが彼のいいところだ。

・また、犬と馬肉という彼のこの後の本に何回も登場する話が出てくる。これは欧米人と日本人との犬や馬肉に対する認識の差のことである。「ことば」はあまり関係なかった。

・そして最後は人をあらわす言葉として人称代名詞に対する分析を行い、人称代名詞における日本の文化と西欧の文化を克明に比較しきったのであった。わたしは感服したのであった。


しかし旅はまだまだこれからだ。

blog - パラダイム・シフト

わたしは今、きわめて明確なパラダイムシフトを明瞭に感じているのだった。先々週から言語学を学ぶために鈴木孝夫さんという方が書いた本を読み続けてきたが、これが何とも、頭をかち割るというか、天動説から地動説へというか、今、新しい自分が誕生しつつあるのを感じるのです。

こういう経験はホント久しぶりのことで、少し感動しているのです。だから記録して、記憶しなきゃと思い今PCの前に座っているわけです。わたしは先月で昨年8月に禁酒をはじめて1年ということになるのですが(禁酒自体は4月くらいに終わっている・・)、また少しやらかしてしまい、何やらとても沈んだ時間を過ごしたわけです。

しかし今わたしは感動に打ち震え(少し言い過ぎか・・)、新たな決意で人生に望んでいるわけでした。わたしは一人で寂しく死んでいくと、何らの貢献もできず、何らの意義深い活動も行えずに、英語を初級程度に話せ、中国株で小金を稼ぎ、髭はずいぶんと薄いと自らを嘆く代わりに、わたしは今ここに明確に宣言するわけです。


日本人でよかったと。そしてわたしは英語で吼えると。