Wednesday, September 05, 2007

blog - 鈴木孝夫③『教養としての言語学』



われわれはわれわれが健全であるとき、すなわち何の障害も感じず、何の苦難も感じないようなとき、われわれはわれわれが思う最大の力を発揮するのであって、それが本当の力かどうかは全くわからないのであった。

考えてもみよ。オーケストラ鳴るときのその指揮者のその針の、いつもは見せぬその働きの、力強い働きを観察せざるを得ないとき、われわれはその本質を何よりも感じるのであって、思考だとか、思想なんていう言葉はもうどうでもいいはずでなのであった。

わたしの読者のうち何万人という人はわかるまい。わたしがナウシカを見て感動するのを。わたしがラピュタを見て童心に返るのを。わたしがトトロを見て懐かしむのを。わたしは既に何らかを掴んでおり、前述のものは単なる比喩であり、わたしはいよいよわたしの進むべき道に進んでいくことを。

さて、解説に入ろう。

・第一章 「記号としてのことば」 - わたしが以前知ったその最低の言語学者は人類以外に言語を用いている生物はおらず、もし何らかの記号を用いて通信を行っていたにせよ、それは言語学としてわざわざまとめるまでもない。そう彼は言い切ったのだ。何という誤謬!何という稚拙!鈴木孝夫さんは表しきったではないか。この章で鳥と、蜜蜂と、猿の「ことば」を。彼の言葉を聞くといい。

・第二章 「ことばの働きとあいさつ」 - まずロマン・ヤコーブソンの言語の六要素と六機能を解説し、これらにのっとり自身の論をすすめていく。あいさつが文化人類的にどのような意味を持つかを言葉の面から詳細に分析し、中でもその集団での力関係の記述について彼は怠りなかったのであった。 当たり前だ。彼は文化人類学者でもあるのだもの。

・第三章 「指示語の仕組み」 - 指示語というものについて、他の用語とは区別される特殊性を述べながら、図と絵などのツールを使いながら、彼の言語学における成果を示したのあった。つまり「彼」「彼女」と本来二人称のところで三人称が使われた場面に対して類型化するとともに、何かを大きく語っていたよ。

・第四章 人称をめぐる諸問題 - 前作に引き続いて人称(つまり私、あなた、彼/彼女といった表現)について解説を進めた。人称に関する表現の違いに文化人類的な違いがあるんだとばかりに論を進めたがっていたが、あまり進展はなかったような気はするのであった。

・第五章 「言語干渉」から見た外来語 - 彼は外来語(いわゆるカタカナ語)の弊害をいろいろと述べるのだが、その例としては、自動車の車名や、花の名前が上げられるわけではあるが、そして彼はいろいろとこの言語干渉について類型化を試みるわけではあるが、わたし個人としては、ある程度のカタカナ語は受け入れるべきで、メリットがそのデメリットをある範囲は上回ると思うわけです。ここだけが唯一、彼とわたしの意見が大きく異なるところで、ただ、その大きな本筋には何らの影響を与えないのであった。わたしは彼の講演を聞いてみたいと常々思うようになった。


人を知れ。そこに言葉がある。

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