(※北京駅前広場にて)
中国人が高圧的で、日本を嫌っていて、声が大きいというのはわかっていた。ただわたしはそれを固定概念とせず、実際に中国の地を踏み、実際に中国の人とふれあい、それから、中国の人たちを判断したかった。いや、判断などというものは自己中心的で、身勝手だ。わたしは、ただ感じよう。
思ったより、おだやかだった。携帯電話を所構わず彼らは使うが、それはまあしょうがなかった。むしろ彼らは人が携帯電話を使うことを苦に思わないのだから、それはそれで問題なかった。そして初日に北京の市内でとても優しい素晴らしい方に出会った。中国人の「内」に対する大らかさを見たようだった。
わたしは一人で中国を旅行しており、そしてつたないながらも中国語を話しており、彼らにとっては身内みたいなものだった。集団で行動し、日本語ばかり話すツアー客とは一線を画していた。わたしは彼らの中に深く侵入し、彼らのことを知ろうとした。わたしの人間観察眼はここでも最大に発揮された。
彼らは、特に中高年の方々は、基本的に田舎者だった。経済も急速に成長して、その波についていけないのだった。彼らは今まで通り唾を吐き、乱暴に通りを歩き、高圧的に人に接するのだった。ただ、彼らの素顔としては、これまた田舎の人がそうであるように、優しく、おだやかなのであった。家族には、柔和な笑顔を常にみせるのであった。笑い声が響くのであった。
ファッションは大抵ダサかった。体も何か日本人より一回り小さい感じがした。同じモンゴロイドではあるのだが、顔を若干違うことは明らかなような気がした。これは言葉にしては本当はいけないことであるが、彼らは弱さを自らの中に抱えていた。そして彼らは清の時代の反省を踏まえ、大きく成長しなければならないと強く決意していた。
次の明治維新は中国で起きるだろう。それが時代だ。それが流れだ。
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