Wednesday, May 31, 2006

blog - 哲学的なこと。制約、波について。

英語ブログとこの日本語ブログとの切り分けについては、日々感じるいろいろなことや、日本語で表すと赤面してしまうようなことについては英語ブログで書こう。そして日本語ブログでは、残念ながらわたしのつたない英語のライティング能力では書き表せないような難しいことを書いていこう。今日は以前から感じている「制約の価値/意義」という点と、人生における様々な波/波長というところについて書いてみたいと思う。

制約には価値がある。制約とは、その人生に対してある「足かせ」をはめることである。やりたいことをやらないこと。やってしまいがちなことをやらないこと。例えばテレビを5年間見ないこと。飲み会に参加しないこと。肉を絶つこと。しばし新聞を読むことをやめること。それなりに価値があることを、選択と集中の原理を用い、制限する。このようにすることにより、減量に努めるボクサー、相対性理論を生み出したアインシュタイン、チェスを面白いが時間を無駄にするものとして考えたベンジャミン・フランクリンなどが成し得た人間が可能性としてやり遂げられることを、やり遂げることができるのだ。

そしてこの制約の価値を知ると、制約を自由自在に操り、その人の人生の目的であるその人が本当に求めるものに対しての、最短経路でのパスを手に入れられるようになる。世界はわれわれに対して膨大な量の情報を送り込むが、そしてそれはしばしばわれわれを困惑の極みに落とし込むものであるが、天才というものは自らが発揮しうる可能性をもつその種というものに対して、集中的に水分と滋養を与えている、かつ与えてきた人間に他ならない。制約という側面を持つ集中こそが、自らの人生の価値を高め、そして自らが世界に与えうる価値の絶対量を定めるのだ。

それでは次に「波」というものに対して考察を進めよう。この「波」の性質こそ、わたしを過去、散々苦しめ、人生に不可解さを感じさせるに至った最大の要素である。「波」とは生体におけるバイオリズムであり、三陸海岸にみられる複雑さの拡大と縮小の点からの認識の歪みであり、株式市場の毎日の上げ下げとそれに対しての大きなうねりの共存というようなものを意味するのだ。われわれは日々を過ごし暮らすとともに、1年、10年と人生を歩んでいくわけで、小さなスケールの「波」と大きなスケールの「波」が別物であり、または同じものであるということを明確に認識する必要がある。ないしは認識した方がよい。

人生の達人であればあるほど、このスケール間の波の様相は同一の体を示すのだけれど、わたしがそうであるように人は凡人であれば凡人であるほど、浜辺に押し寄せる波と、潮の満干とのその差異を、大いに認識せねばならないのだと思う。例えば、その差異を認識する利点として、わたしの日々の中でみた英語力のどうしようもない有様と、ただ、1年前と現在を比べたときの確かに大きく進歩している英語力というものをお互いに知るということは、わたしが2日後を求めるのじゃなく、2年後を求めるのだという人生に求められる忍耐強さを醸成するに至るわけだ。

簡単な例で言えば株式投資がまさにそうだ。1日で数十万下がることもあるけれど、長い目で見れば数百万という価値を生み出してきたわけだし、今後も正しい判断を正しい価値判断を元に下していけば、数千万の価値を生み出していくわけだ。人生には「波」がある。これは覆すことのできない事実である。そしてその「波」にはいくつか種類があり、サーファーが自らのその波に対して適切な判断を下すということと、潮の満ち引きを監視するライフセーバーないしは漁師たちがその法則性を知りうることの両面を、われわれは自らの人生により大きな価値を見出すために、認識する必要がある。


いずれにしてもわたしは「波」の存在に気づき、大いにそれを潮力発電に生かそうと思っているわけだね。以上

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