Tuesday, December 25, 2007

Fukuoka - 福岡8週間を終えて


(※博多座かな)

聖なる夜も無事に終わり、わたしは8週間目のまとめと、いくつかの反省の試みを行わなければならない。先週は忘年会というものがあり、わたしはそこで心温まる時間を過ごしたのだった。インド人にはわたしの英語をimpressiveと言わしめ(ただしこれは留学経験がないのにという文脈において)、顧客の素晴らしいリーダーと対話することもできた。

しかしわたしは同時に記憶が幾分なくなってしまっている可能性を否定できないことと、翌日に二日酔いに苦しむという旧時代の負の遺産とはもうそろそろおさらばしなければならないことを肝に銘ずるべきだろう。わたしはわたしの人生をできる限り生産的に過ごさなければならないのだから。わたしはやはりいつでもわたしのいるべき場所に戻らざるを得ないのだから。

そして土曜にはいわゆる飲み会に参加した。ここでもおそらく3次会まで心温まる時間を過ごすことができた。翌日に例の何とか酔いが繰り返されたが、わたしは知っていたのだよ。谷の後には山が。引き潮の次には満ち潮が。停滞の後には素晴らしい前進、光り輝く啓示、新たなる決意がやってくることを。わたしは今日の2軒でのスタバでの出来事を一生忘れないだろう。


わたしは進みつつある。

Monday, December 17, 2007

Fukuoka - 福岡7週間を終えて


(※たぶん太宰府)

そろそろ福岡を中間的にまとめなければいけない時期が来ていると感じている。今だから言えるが、わたしは福岡に以下のようなことを求めてやってきた。

・洞窟にこもるような感覚で勉強しに来た。
・新しい環境にいち早く適応できる適応力を試しに来た。
・新しい場所には新しい出会いがあることを一般的には期待できた。


まず、わたしは福岡に勉強にしに来た。わたしが福岡に来る前にそれまでの目標であったTOEIC950を万全の状態で達成したことは既に述べた。わたしは次のステージに進まなければならなかった。世界が待っていた。今までどんなわたしも体験しなかったような新しい挑戦が待っていた。わたしはそれに備え、洞窟にこもるような気持ちでここにやってきた。

そして、初めての長期出張、新しいタイプのプロジェクト、そして初めての福岡。これは神様が与えてくれた試練やチャンスのように思えた。新しい環境に身を置けば、すべての生物がその環境に合わせて進化を遂げてきたように、わたしに何か新しい変態を与えてくれるはずだった。そしてその予感は現実のものとなり、わたしはもう2ヶ月前のわたしではなく、わたしの力は以前のそれと比べようもなく、わたしは今ここに立つのだ。

新しい場所は、新しい人たちとの出会いを期待できた。通常わたしは、多くの人たちと友人となったり、社交的に振舞ったり、積極的に出会いを求めたりはしないタイプの人間だと断定することもできたが、新しい場所の新しい人たちは、何かわたしに新しいきっかけを与えてくれることは否定できないことだった。そして予感は確信に変わりかけ、確信は夢のように消えてしまったが、わたしはその花を忘れはしないのだった。


すべてのものには理由と、必要性がある。

Wednesday, December 12, 2007

blog - 世紀の政治家 バラック・オバマ



2008年アメリカ大統領選は歴史に残るイベントとなるだろう。ケネディ以来の世紀の政治家バラック・オバマが大統領になるようなことがあると、すべての状況が変わるだろう。わたしはアメリカの没落を予想しているが、それは覆されるだろう。それは彼のスピーチを聞き、彼の人格を知り、彼がなしうるアメリカという国への影響を考えれば、容易にわかることだ。

来年最初の党大会が行われるというアイオワ州でヒラリー・クリントンを3ポイント上回ったという。これが最初の兆しで、これから徐々に逆転現象が見られ始めるだろう(全米規模では20ポイントほどクリントンが優位)。すべてのニュース記事、すべてのスピーチ動画、すべての噂話を集めればこの二人の差が何で、バラック・オバマという人間が成し得ることの大きさは容易に感じられるのだ。

バラック・オバマはアメリカを変え、そして世界を変えるだろう。原則と真実が強調されるだろう。信義と高潔が評価されるだろう。自由と平等が再び蘇るだろう。ジョージ・ブッシュで失われた8年間が多少の回復をみせるだろう(すべてが回復されるとは現時点言えない)。Obama.comでGoogleにて語られた彼の話を聞くといい。彼を単なる政治家だと思うのは誤りで、彼は世紀の政治家であることを知るといい。


いつからだろう。人の心が読めるようになったのは。

blog - ベクトル、向きについて



既にたくさんの人が気づいているように、人生の幸せというのはその絶対量にあるのではなく、その漸増度にある可能性が高いということは否定できないだろう。いや、そもそも、量や向きという尺度で一般化しようなぞという試みはまったく愚かとしか言いようがなく、われわれは何か新しい認識、何か新しい想定をその人生に対して持たざるを得ないであろう。

わたしが不思議なのは、過去どんな不幸なこと、どんなひどいこと、どんな自虐的なこと、どんな不運なこと、どんな最低のことがあったとしても、われわれ人類はそれらを生かした上でのよりよい人生を歩むことができるということを感じ、知っていることだ。


ベクトルの秘密を知るのは2年後のことだ。

blog - ニーチェの言葉



最近どうしてもニーチェの言葉にぶち当たってしまう。ニーチェの思想は激しすぎて、激しさを忌避する傾向にある最近のわたしにとっては近づいてはいけない存在なのではあるが、彼の超人思考はわたしの頭からは実際には離れないのだった。

超人志向とは人類の未来への一つの仮説であり、一つのステップであり、総体としての目標の設定の試みだ。彼は「神は死んだ」と言い、これは比喩に過ぎないのではあるが、新しいもの、より優れたもの、理想とすべきものへの希求の道を説いたのであった。

待つ力、時間をゆっくり過ごす力、回り道をする力を既に手にしているわたしにとって、この超人志向は無縁のはずだったが、どうしてどうして、何か切っても切れない繋がりがあるようなのだった。確かにわたしは一日50回の懸垂、一日5時間の英会話、そして一日5分の思索を行っている。


ツァラトゥストラはそう言った。

blog - 時間の重み



時間が、過去と未来で構成されていること。そして現在という概念は百万年の過去と、百万年の未来を同時に含むことは理論的に既に証明した。ただ、わたしは気づいた。時間の重みということについてはまだ理論的に証明していないことを。

くしくも古代中国の哲学者、孔子はこう言った。「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲するところに従って、矩を踰えず。」

われわれは百年後のわれわれと、そして百年前のわれわれと共に生きているのではあるが、その人生において何らかの意義、何らかの意味合い、そして何らかの節目があることは明らかだ。例えばわたしは感じるのだ。この今までの32年と10ヶ月という年月はそれぞれ特有の意味を持っていて、だからこそ、わたしは今に重みを感じ、楽しめるのだと。


時間こそ最大の不思議であり、最大のドラマではある。

Tuesday, December 11, 2007

blog - あなたが花なら



わたしの回帰志向は、いずれその対象を見つけ、そこで無邪気に、生まれたての喜びを味わうことになるだろう。わたしのこの10年間は音楽とは全く無縁であったわけで、それは意識的な離縁と無意識的な疎遠があったわけだが、わたしは何らかの出来事をいずれ経験するだろう。


わたしは今ひとつの生存に近づいているのを感ずる。

Sunday, December 09, 2007

blog - 再考・人生について(最終)


(※街中から見た熊本城)

そろそろこの再考シリーズ?も終わりに近づいてきたようだ。福岡での生活も6週間を終え、わたしは日常に平安を取り戻し、再びあるべきところへの挑戦を続けていかなければならない。人生は岩だ。それは登るために。それは超えるために。

人生は道だ。それは歩き続けるために。それは登り続けるために。はっきり言って、東京が恋しかったり、つまりいわゆるホームシックにかかったり、失恋したり、博多ラーメン食べ過ぎたり、いらぬところにお金をたくさん使ってしまったり、あまりいいことがなかったかもしれない。

しかしこの福岡での1.5ヶ月はわたしに貴重な、本当に貴重な経験をもたらしてくれた。仕事に関する新しい啓示をみた。英語に関する新しい成長を感じた。そして何より、人生において新しい何らかの概念、哲学、思想を取り込むことができた。年末年始は東京に戻り、わたしはそこで一大決心をするだろう。


まだそれが何なのかわからんのだけれどね。

Wednesday, December 05, 2007

blog - 再考・待つこと


(※長崎の、海)

待つことができなければ何も手に入らないことは自明になった。わたしは過去、待てない男だった。リフト待ちがいやで、スキーをやめた。渋滞がいやで、運転をやめた。そして待つことがいやで、すべての運命を逃してきた。

待つことは時間と友達になることだった。待つことは未来と手を握り、過去と和解することだった。待つことというそれ自体は一見無価値に思えるその行為は、すべての可能性を生み、すべての不可能性を可能にする第一の行為だった。

待つことでその可能性は最大になるだろう。いや、待つことは可能性の存在すら超越するだろう。わたしは待ち、すべての時間を抱き入れるだろう。この単純な行為のその単純な原理を、わたしは知らなかったとは。この単純な行為のその単純な原理を、知ることができたとは。


もうわたしは待つこと以外、何もしないだろう。

blog - 再考・世界について


(※長崎の、空)

世界を見たからわたしは飛び出し、世界を感じたからわたしは焦燥感に駆られた。人には人それぞれの生き方があった。人には人それぞれの世界との接し方があった。ただわたしが意識していたことは決して逃げないことだった。ただわたしが意識していたことは決して嘘をつかないことだった。

わたしにいつか子供ができたら、こう願わずにはいられない。世界を知る男の子であるように。世界を感じる女の子であるように。今後100年、世界という言葉がキーワードになり様々なことが展開されていくだろう。環境問題に世界レベルで対処しなければならなくなるだろう。世界レベルで日本を語らなくてはならなくなるだろう。

わたしが成し遂げたいこと、成し遂げられることは偉人のそれに比べて何千分の一、何万分の一だろう。でも、それでいいのだ。わたしは既に未来への架け橋になることを意識し始めており、様々な未来と過去がわたしの体を行き来するのだ。わたしは一つの踏み台となり、わたしができることをわたしなりの表現で世界に伝えていくだろう。


わたしには既に、かけがえのない未来と、かけがえのない過去があるのだ。

Tuesday, December 04, 2007

blog - 再考・表現者という道について


(※太宰府天満宮の絵)

まずわたしはタイトルベースで、近年中にリリースされる書籍/論文を羅列してみたい。

・『メンテナンスプロジェクトにおけるフレームワーク構築に対する理論的考察』
・『オフショア開発モデルにおける文化への理解の必要性とその根拠』
・『英語学習の実践的研究とTOEICに関する考察について』


と、ここまでが来年中にリリースされるもので、この後はなぜかわからないが思いつかなかった。ということで、わたしはわたしがなぜ表現者なのか、どのように表現者なのかをこれからまとめなければならないだろう。わたしにはそれを緊急的に行う理由が少しはあるかもしれない。

「守・破・離」の概念の重要性については何度言っても言い足りないかもしれない。それは守り、改善し、そして発展させる従うべきディシプリンに他ならない。わたしはそろそろわたし独自の考えを試し、示し、反駁しなけばならない時期だと強烈に感じている。わたしは問わなければならない。


わたしという生と世の中とのかかわりについて。

blog - 再考・恋愛の理論化について


(※キャナルシティ博多)

恋愛の理論化などできるはずがない。なぜならそれは状況によってその様相が大きく異なり、時には裏と表が逆になり、理論化つまり一般化などできるはずがないからだ。それを今日わたしは試みよう。それだけのことを行う理由と必要性が、今のわたしにはある。

まず、パーソナリティというものに関してわたしは50:50という理論的数値を掲げてみたい。すなわち同位の相をみせる50と、異相をみせる50と。似ているものがあるから共感し、共鳴するのだ。異なるものがあるから補完し、助け合うのだ。

そして、わたしはArt of lovingの重要性について改めて強調したい。LoveではなくLovingと動名詞であるところがポイントだ。Lovingは態度であり、蓄積であり、過去と未来であるわけだ。すべての城塞の土台が年月をかけて作られるように、Lovingそれ自体がプロセスであり、同時に結果でもあるわけだ。


理論化は完璧だと言わざるをえない。

Monday, December 03, 2007

blog - 再考・九州一人旅


(※屋台で食べた焼き鳥)

第5週目である先週はどこにも行かなかったよ。佐賀に佐賀牛を食べに行こうかと思ったんだけど買い物や髪を切っていたら時間がなくなってしまって。日曜は人と会っていた。

いずれ、九州ぶらり一人旅を再開することもあろう。ただしそれはより効果的なプランとともに再開されるべきであろう。わたしは今日本最南端の島に位置しており、日本を見つめなおすには非常にいい時期だから。


わたしの今年最後の月は既にスタートしていた。